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炎上を血肉にして2代目CTOに。 何代にもわたって繁栄し続ける、 開発組織の基盤をつくりたい。

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大学は文系。プログラミング経験も無いまま、電通国際情報サービスからリクルートへ。春日重俊は、数々のタフなプロジェクトを、時には炎上しながらも、全力で形にしてきた。
そして、Chatworkの開発本部長を経て、2020年7月、2代目CTOに就任。
CEO兼初代CTOの山本正喜からは、何を受け継いだのか?そして、何を変えて行くのか?

■ プロフィール

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執行役員CTO兼開発本部長
春日 重俊

2003年、明治大学経営学部を卒業後、電通国際情報サービス(ISID)に入社。大手企業の基幹会計システム導入の経験を積む。2008年にリクルートへと転職。新規事業の開発業務をリード。2016年1月にChatworkに開発本部長として入社。2020年7月に執行役員CTO兼開発本部長に就任。

社会人2年目で、ISIDでも5本の指に入る炎上案件を担当 

―― キャリアのスタートを教えてください。

大学は明治大学の経営学部に通いました。手に職を付けるために会計や税務のゼミを受講し、税理士資格を取得するために猛勉強しました。簿記二級までは取ったのですが、覚えたルールでずっと食べていくのは退屈だと感じて、就職活動ではIT系に転身。会計とITと英語ができれば、まあ食いっぱぐれないだろうと電通国際情報サービス(ISID)に入社したのです。

ISIDには計5年間務めました。IT未経験のため、3ヶ月の研修を経て開発を経験したのですが、全く通用しなかったです。学びと実践の差に直面し、「何とかこれを埋めなくては」と年間100冊くらい技術書を読みまくりました。そして、何とかついては行けるようになり、2年目より大手食品メーカーの基幹会計システムのリプレイス案件を担当。ただ、このプロジェクトがめちゃくちゃ大変で(笑)。

その後Javaで活用されるようになるフレームワーク「Seasar2」を試験的に用いたプロジェクトに携わりましたが、大規模かつ技術的難易度の高い案件でした。一般的な会計ERPの導入には100名規模の人員がアサインされてもおかしくはないのですが、なぜかこのプロジェクトは10人で進めることに。結果、社内でも5本の指に入るくらいの炎上案件になりました(笑)。

―― しかも、春日さんはほとんど新人同然ですよね。

心が折れそうになりましたね(笑)。ただ、上司が神がかり的に仕事のできるエンジニアで、彼についていけば自分も成長できるだろうと食らいつきました。その上司は後に大手外資系コンサルファームでパートナーまで上り詰めた方なのですが、やがてプロジェクトから抜けました。そして他の先輩も順に抜けていき、私がプロジェクトマネージャーを務めることに。タフな業務が続いて非常に苦しかったですが、「ここまで苦楽をともにしたお客様のためにも逃げるわけにはいかない」という責任感と、「自分の部署では一番の成果を上げたい」という小さなプライドがあったから、何とかやりきることができました。ISIDを退職するときに、お客様に送別会を開いていただいたのは、良い思い出ですね。もちろん、泣きましたよ(笑)。

『じゃらん』『ゼクシィ』『ポンパレ』。新規機能のタフな開発を通じて、得られた自信

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―― そして、ISIDを退職して、リクルートへの転職した理由は何ですか?

理由は2つです。自社プロダクトで企画から携わりたかったことと、ネットビジネスの経験を積みたかったこと。ただ、家族に相談する間もなく転職が決まったので、妻からは大激怒されて(笑)。「電通という大企業のグループから出てどうするつもりなの!!」と問い詰められました。

何とか家庭内の炎上を鎮火しつつ、最初にアサインされたのは『じゃらんnet』のフリーワード検索機能の開発です。開発難易度が高く塩漬けになっていたプロジェクトに、ネットビジネス未経験の私が放り込まれました。そこで活用した技術が、オープンソースの全文検索システムの「Solr」でした。過去に例のないアプローチだったので、開発ベンダーさんを説得することからプロジェクトがスタート。「僕が責任取りますから」と口説いて、何とか実装をお願いしました。プロジェクトの途中で異動になってしまったのが非常に心残りだったのと同時にダイナミックに人事異動させる会社だなと、びっくりした記憶があります。

次に『ゼクシィnet』のリニューアル開発を経て、『ポンパレ』というクーポンサービスの入稿システムを1ヶ月半で立ち上げました。3000人の営業担当が写真とテキストを入力すれば、広告画面が生成されるものです。事業側の無茶ぶりにも応えられるようになり、ネットサービスの開発にも自信がついてきた。ただ、この自信は次のプロジェクトで、完膚なきまでに叩き潰されるのですが。 

不満を募らせるメンバー。そして、プロマネをクビになった

―― それはどのようなプロジェクトだったのでしょうか?

リクルートの各種サービスの利用者に対して、クライアントから直接メールを送付できる、新たなプロモーションサービスの立ち上げ案件です。これまでは開発サイドの責任者を務めていたのですが、このプロジェクトでは事業側の責任者も兼務しました。サービス自体の企画から携わりたいという思いを会社側にくんでもらい、任せられたわけです。

そして、このプロジェクトが大炎上したのです。リクルートの各種事業を横断したプロジェクトのため、無数の社内調整が発生しました。さらに、クライアントが利用者に直接コンタクトを行うサービスなので、「電気通信事業法」に抵触しない形でサービスを設計する必要もありました。

―― 企画や開発から外れた業務が多かったのですね。

調整、調整、調整の毎日の中で、私自身が強引に進めようとしたことで、プロジェクトメンバーとの軋轢が積み重なり、チームが空中分解してしまったのです。ある女性メンバーから、「あなたの下では仕事ができません!」と大炎上してしまいました。。このような状況を見かねた上司の部長から、「プロジェクトマネージャーを他の人に担当してもらう」と告げられ、クビになりました。おそらく、開発の途中で責任者が外されるのは、リクルートでは前代未聞だったと思います。

人を信用していなかった、という反省を経て、私の中で何かが変わった

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―― 大きな炎上となった原因は、何だったのでしょうか?

この一連の失敗から反省したのは、責任者の私が「人を信用していなかった」ということ。プロジェクトメンバーの仕事を全く信用していなくて、事細かに指示を出したり、私が巻き取ることも多かった。要は、チームの力を引き出すよりも、自分の力だけで何とかなると思い込んでいたのです。社内外の関係者がどんどん増えていく大規模プロジェクトでは、リーダーがこのスタンスではさすがに回らない。リクルートには、メンバーを信じて任せるプロマネも多かったので、余計にその差を痛感しました。自分を「媒介者」と定義して、メンバーの力を最大限に引き出す。そして、大きなことを成し遂げる。失敗の大きな痛みを経て、そのようなマインドチェンジが自分の中で起こりました。

Chatworkでの最初の仕事は、巨大なリプレイスプロジェクトをストップさせること

―― そして、リクルートからChatworkに移ったキッカケは何でしたか?

リクルートは35歳まで勤めました。そして、より情熱を持ってプロダクトを開発できる場に身を置こうと転職したのがChatworkです。当時は上野近辺の住宅街にオフィスがあり、看板も何もない小さな会社でしたので、初回の訪問時は少し不安でしたね(笑)。面接で現社長の山本と初めて話したときに、異様に盛り上がりました。他のスタートアップ以上の熱量を感じましたし、つくりたい組織の理想像が似ていた。そして、過去の失敗体験やそこで学んだことを話したら強く共感してくれて、夕方から終電の時間近くまで話し込みました。ああ、こんな人の元で働きたいな、と感じて入社を決断したのです。

晴れて入社したその日に「あと数日で資金が尽きます」と前社長に明るく言われて、背筋が凍りました(笑)。シリーズBの15億円が投資される予定だったので大丈夫だったのですが、社長が素でそういう発言をする風土には、驚いたのを覚えています。

―― 開発本部長として入社して、当初はどのようなミッションを遂行しましたか?

当時の開発部は30名体制で、現在の半分の規模でした。様々なプロジェクトが属人的に走っている状況で、全ての進捗を把握している人が誰もいなかった。なので、まずプロジェクトの進捗とリソースの可視化から始めました。そこで見えてきたのが、ある巨大プロジェクトが全体のリソースを圧迫していたこと。「Falcon」と名付けられた、Chatworkの基幹システムのリプレイスプロジェクトを、私が一旦ストップをさせました。最終リリース前の社内の負荷テストでダウンしたことを受け、今の体制ではリリースできない、と判断を下したのです。

外から入ってきた人間が、いきなり大規模なプロジェクトに待ったを掛けたので、もちろん反発はありました。ただ、少ないリソースで最大の成果を上げないとベンチャーは勝てない。苦しい中で長時間労働を重ねても、良いモノはつくれない。そう説明することで、なんとか納得してもらいました。

3年掛けて組織的負債を解消。
CTOとして、より自走できる組織へと進化させる

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―― 1年目以降から、現在までの開発の軌跡を教えてください。

もともとChatworkというプロダクトは、自社内で使うコミュニケーションツールとして開発されたものです。そこに業務アプリのロジックを足していったので、大規模での利用は想定されていません。ですから、当時は抜本的な負債を抱えていて、その解消に1年掛けて取り組みました。

そして、次の1年のテーマは、立てた計画を守り、何らかの機能をリリースする、と置きました。きちんと準備をして計画したプランをもとに、最後までやり切る。その大規模開発のマネジメントを浸透させることで、成功体験が生まれてメンバーに自信がついてきました。「春日さん、リリースってできるものなのですね」と言われたのを、今でも鮮明に覚えています(笑)。

そして、3年目以降は、メンバーが自分たちで考える自己組織化のフェーズに入りました。バックエンドとフロントエンドを大規模システム向けに改修して、iOS向けのアプリをSwiftでの開発に切り替えました。ここまでは順調に来ていると言ってよいでしょう。

ただ今後は、サービスの利用者が急拡大していて、加えて他サービスとの連携の機会も増えてくる。それによって事業のニーズとリソースとのギャップが出てくる可能性も高い。外部との協働開発を模索しつつも、ギャップを自ら定義して埋められるような、より自走できる組織へと進化させることが求められています。それが現在、CTOに就任した私が取り組んでいる、最重要のテーマです。

社会課題と技術的なチャレンジがイコール。
迷いなく開発に打ち込める環境

―― Chatworkでエンジニアとして働く魅力はどこにありますか?

Chatworkにおいては、事業課題と技術的なチャレンジがリンクしているので、開発メンバーとしては気持ち良い環境だと思います。チャットサービスはすごくシンプルなのですが、同時に多くの人がアクセスする前提に立つと、システムが一気に複雑になります。レイテンシが少し上がるだけでも、全体に不具合が生じる繊細な仕組みは、他にはあまり無いですね。

また、30分間でもサービスが落ちると、Yahoo!でトレンド入りするくらい、社会のインフラとして認知されている。使っていただいている中小企業や病院、介護施設の業務が止まるので、絶対に落とすわけにはいきません。技術的な高い壁を越えて安定したサービスを提供することが、事業の成長と社会への貢献にそのままつながる。そういった意味で、エンジニアとしては、幸せな環境だと思いますね。

2代目CTOの仕事は、組織が何代も続くための仕組みをつくること

―― 春日さん自身のこの後のキャリアは、どのように考えていますか?

明治大学の文系学部を卒業して、社会的にも大きな影響力を持つベンチャー企業のCTOを任されるようになったのは、珍しいキャリアですよね。自分の仕事人生は恵まれている。そう思います。だからこそ、今の立場に酔わないようにと強く意識しています。本当の意味でのテクノロジーのトップは、自分の立場や役割よりも中長期的な会社の未来を優先するべきです。仮に、自分より貢献できる人がいれば、その人に席を譲る。それもCTOの仕事だと思うんですよ。

Chatworkの初代CTOは現社長の山本で、私は2代目です。“江戸幕府”のように、何代も連綿と続けていくような仕組みや育成体制をどうやってつくるのか。それが2代目の重要な責務の一つ。ですから、次世代の育成の仕組みを確立するために、新卒採用にも力を入れています。つい先日も、インターン生との1on1を1人につき1時間、10人ぶっ続けで行いました。30分でもやれなくはないですが、学生にとっては真剣勝負だからこっちも手を抜けないんですよ。

とにかく未来にはガチで向き合う。誰もがどのシーンにおいても、そういったスタンスを持てるような組織にしたいですね。これは哲学のようなもので、綿々と受け継がれて、強い組織の源泉になるはず。そのようになるかどうかは、トップの態度次第だと思うんですよね。だから、自分自身が最も真剣にやらなければならない。

もう一度、日本が世界を獲る。Chatworkで“ワンチャン”を狙う

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―― 最後に。Chatworkというプロダクトの未来は、どのように描いていますか?

やはり日本発のサービスで海外のプロダクトに勝ちたい、という想いは持っています。日本のITサービスも、うまくやれば覇者になれる瞬間があったと思うんですよ。たとえば「iモード」は当時の世界最先端でしたし、2000年代の前半においては日本メーカーの端末が強かったので、「iPhone」だって発明できたかもしれない。PCにおいても日本製のPCがクールだと言われていた時代だった。もう一度、日本が世界を獲れる“ワンチャン”くらいはあっても良いのでは、と考えています。

それをChatworkで実現したいんですよね。国内でのシェアはNo.1*ですし、海外にもサービス展開しています。いや、シェアだけが指標ではありません。満足度や使い心地でトップになってもいいと思います。“おもてなし”とか“わびさび"とか、日本人らしい美学に共感してもらいつつ、Chatworkを使ってくれる文化が生まれてくれば、もう言うことないですね。

*Nielsen NetView および Nielsen Mobile NetView 2020年6月度調べ月次利用者(MAU:Monthly Active User)調査。調査対象44サービスはChatwork株式会社にて選定。