Cha道

Chatworkの「人」「組織」を
伝えるメディア

エンジニアコミュニティが生んでくれたChatworkとの縁。

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何を大切にしてエンジニアのキャリアを歩むか?
この答えに、そのエンジニアの価値観や哲学が表れます。フロントエンド開発部のテックリードである火村智彦はこれまで「自分自身も、そして周囲の人々も楽しくいられること」を大切にしてきたといいます。
そのための行動の一例が、技術コミュニティの主宰・運営です。過去には各種技術コミュニティの中心人物となり、人々を楽しませる催しを開催してきました。そして、コミュニティ活動によって生まれた人とのつながりが、Chatworkで働くきっかけに結びついたのです。
どのようなマインドのもと、火村は自らの行動を選択してきたのでしょうか。そして、Chatworkへ参画した経緯とは?

■プロフィール

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プロダクト本部 フロントエンド開発部
火村 智彦

高校時代からコンピューターに熱中し、大学の情報メディア科でプログラミングを学んだ後にエンジニアの道へ。Hiroshima.rbやすごい広島、LT駆動開発、CSS Nite in HIROSHIMA、Code for Hiroshimaなど複数の技術コミュニティの主宰・運営を担い、コミュニティのつながりをきっかけにChatworkの業務に携わるように。現在はフロントエンド開発部に所属。アーキテクトチームの一員でクライアントサイド・アーキテクトを務める。

学生時代にコンピューターに熱中し、エンジニアの道へ

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――火村さんとコンピューターとの出会いについて教えてください。

私が小学校の頃、自宅にMacのパソコンがあったので触れて遊んでいました。本格的にコンピューターに熱中し始めたのは、自分でパソコンを買った高校2年生からですね。ファンサイトを訪問してチャットをしたり、自分自身でWebサイトをつくったり。Emacs・VimなどのテキストエディタやCコンパイラに触れたりもしていました。
その後、福岡の北九州にある大学に入学して情報メディア科でプログラミングを学びました。同世代の学生と比べると、コンピューターが得意な方だったと思います。その後、諸事情があって大学を中退し、地元の広島に戻ることになりました。当面の間は実家で生活する方針になり、就職先も地元で探しました。入社したのはSES事業をしているIT企業です。
1社目を比較的短期間で辞めた後、別のIT企業に転職しました。2社目の主な業務は、Linuxサーバーの構築や運用です。自分の持っていたスキルが生かせそうだと考えて、この会社を選びました。

――具体的にはどんなスキルを持っていたのですか?

大学生の頃から、自分でパソコンにLinuxをインストールして遊んでいたんですよ。FreeBSDやGentoo Linux、Debianなど複数のディストリビューションに触れていました。

――学生時代に趣味で学んでいた内容が実務に生きたのは良かったですね。

私は2社目で、もともと社長が担当していたネットワーク関係の仕事を引き継ぐことになりました。4〜5人くらいの会社で、業務に必要なスキルが特別高いわけではなかったため、入社時点で最低限必要なスキルは持っていました。
そのため、2日目くらいに社長から「もう教えることはありません」と言って頂きまして。ありがたいことにスキルを認めて頂いて、若手だったにもかかわらず年上のプログラマーの方々に対して技術的なアドバイスをする役割なども担っていました。

心臓の病気を経験し、自ら行動を起こすようになった

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――2社目の経験で、印象に残っているものはありますか?

業務とは直接的に関係ないですが、2社目で健康診断を受けた際、心臓の病気が判明したことですね。拡張型心筋症という重い病気です。後で詳しく話しますが、この病気の影響で私はいま補助人工心臓を体に埋め込んで生活しています。

――非常に大きな転機ですね。病気が見つかってから生活は変わりましたか?

勤めていた会社を、実質退社している状態になりました。病気のため週5ペースで働くのが難しくなっただけではなく、正社員として仕事をするモチベーション自体が下がってしまったからです。せっかくならば、自分が興味を持てることや楽しめることをして暮らそうという気持ちになりました。実家に住んでいたため、それほどお金が必要なかったのも幸いしましたね。

――興味を持てることとは、例えば何に取り組んでいましたか?

自分自身で勉強会を開催するようになりました。一例を挙げると、2009年12月にプログラミング言語Rubyの地域コミュニティであるHiroshima.rbを立ち上げたことですね。前職で働いていたときからRubyには興味があり、趣味でコードを書いていました。当時は他にも多種多様な技術に興味を持っていましたが、そのなかでもRubyをテーマにしたのは理由があります。
私が好きだった技術のうち、他の方々にも興味を持っていただけそうなのがRubyだったんです。その頃の私が最も興味を持っていたのは別の技術でしたが、非常にニッチな領域だったため、その技術を軸にコミュニティを運営しても人は集まらないと考えました。

――技術を突き詰めることだけではなく、仲間と集まることも大切にしていたのですね。

勉強会を主宰していると技術的に尖った人たちが多く集まってくるので、そうした方々と交流できるのが楽しかったです。また、広島で開催されているさまざまな勉強会にも、高頻度で参加するようになりました。この時代に知り合ったエンジニアは、現在も仲の良い方々ばかりです。
また、会社員として働いてはいなかったものの、フリーランスのエンジニアとして少しずつ仕事を請けるようになりました。前職の会社や勉強会で知り合った方々から案件を受託しながら、無理のないペースで働いていました。
もともと私は、技術的な刺激を得るために、いつか東京などの都市圏で暮らしたいと考えていたんです。しかし、大きな病気をしたことで東京に行くことが難しくなったため「どうすれば自分の身の回りで楽しいことが起きるだろう」という考えで生活していました。

コミュニティで生まれた縁が、Chatworkの仕事に結びついた

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――コミュニティ活動を通じて、仲間と知り合ったりお仕事に結びついていくとは、非常に意義深いですね。

そうですね。先ほどお話ししたHiroshima.rb以外にも、2013年5月にはエンジニアが集まってさまざまな活動をおこなうゆるいコミュニティ“すごい広島”を始めたり、2014年2月からは学んだことを定期的に仲間内で発表し合うLT駆動開発に取り組んだり。また、CSS Nite in HIROSHIMAの実行委員長を代理で務めたり、Code for Hiroshimaの共同代表を務めたりもしました。

――多種多様なコミュニティ運営に携わっていたのですね。

実はChatworkで働き始めたのも、コミュニティで知り合った仲間が影響しています。Chatworkに重村浩二という同僚がいるんですが、彼は山口県に住んでおり、日本Androidの会 中国支部の支部長を担っています。彼から「Chatworkの開発を業務委託で手伝ってくれないか」と声をかけられたんですよ。
当時、ChatworkはScalaエンジニアを探していました。重村は私がHaskellという関数型プログラミング言語の経験があることを知っていたので「火村を誘ってはどうだろう?」という流れになったようです。
余談ですが、先ほど話題にのぼった”すごい広島”というイベントの名前は『すごいHaskellたのしく学ぼう!』という書籍にインスパイアされています。この名前だったからこそ、すごい広島にはHaskellが好きな人が多く所属しているイメージを外部からは持たれていたんでしょうね。
一緒に働いたChatworkのScalaエンジニアたちは非常に技術レベルが高かったです。「すごいところに来た。ついていけるだろうか」という気持ちを抱きながら仕事に取り組んでいました。これまで働いた職場では初めての感覚でしたね。その後、社員にならないかという誘いを受け、2016年1月にChatworkに入社しました。

――Chatworkのメンバーからはどんな印象を受けましたか?

自ら問題を見つけて、Chatworkが目指す方向に向かって自発的に動ける人が多いと感じています。フリーランスとして働く場合に必要な要素を持っている、といいますか。
それから、リモートワークに慣れているメンバーが多いためリモートワークしやすい環境なのはもちろん、同僚のフォローが上手な人が多いと感じます。例えば、困ってる人がいるならば、いつも同じ人ではなくいろんな人たちが助けてくれる。とにかく一緒に仕事がしやすくて、社員みんなが良い人だという印象でした。

ユーザーの成長や市場の動向に応じて柔軟に変化できるChatworkへ

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――社員としてChatworkに参画してからは、どのような業務を担当されましたか?

Scalaで実装されていた機能のiOSアプリ移植やPHPでの機能開発など、基本的になんでも屋として働いていました。ですが、入社から約1年後の2017年3月に心臓の病気が悪化してしまいまして。

――なんと。当時のことを、詳しくお聞かせいただけますか?

広島の病院に緊急搬送されたんですが、その病院では対応が難しいという話になり、ヘリコプターで大阪の病院まで運ばれました。そして手術をおこない、体に補助人工心臓を埋め込みました*。

* … 火村のケースでは心臓移植を行うしか病気の回復方法がないため、心臓移植をするための登録をした上で、移植の順番が回ってくるまでの間に退院して自宅待機するために補助人工心臓装置を装着している。装置を装着することで病院から退院はできるが、生活にさまざまな制限が課せられる。

そこから、しばらく入院生活です。パソコンの持ち込みができず仕事を休職しました。3月末から入院して、退院したのが7月下旬くらいでしたね。紆余曲折を経て、2017年10月にChatworkに復職しました。

復職したばかりの頃は、時短勤務で週2日・10時~16時という条件で働いていました。体力的になかなかハードで、最初は長時間座るのもしんどかったです。たまに横になって休みながら働いていました。そこから、徐々に体を慣らして稼働時間を少しずつ増やし、現在に至ります。今は週20時間から30時間程度の稼働ですね。こうした働き方を会社に許容してもらえたことは、すごく感謝しています。

――働けるくらいに体力が戻って、本当に良かったです。

余談ですが、職場復帰したタイミングの少し後くらいに子どもが生まれており、育児に時間をかけていたのも稼働時間が短かった理由のひとつです。子どもが保育園に行くようになってから時間に余裕ができたのも、稼働時間が増えた要因ではあります。

――復帰後に担当した業務内容についても教えてください。

職場復帰してから半年ほどはBox連携の機能やChatworkデスクトップの開発などに携わりました。その後、2018年3月にフロントエンド開発部に転部し、現在はクライアントサイド・アーキテクトとしてChatworkフロントエンドの開発・保守を行っています。

――フロントエンド開発部ではChatworkを今後どのように改善していくことを目指していますか?

改善したいこととしては、いま重視しているのは以下の3点です。

  1. フロントエンドエンジニアでなくてもフロントエンドの修正が簡単にできること
  2. フロントエンドを修正したとき他の人が入れた修正と競合しにくいこと
  3. フロントエンドの修正に問題があったときにユーザーにリリースされる前に検知でき、修正されること

――これらの施策を実施することは、Chatworkというツールの将来にとってどのような意義があるでしょうか?

一歩先の働き方を提供するChatworkは、ユーザーの成長や市場の動向に応じて柔軟に変化できることが重要だと考えています。フロントエンド開発部としては、そのために必要なものを素早く確実に提供できる体制にしたくて、上記の施策を実施しています。
提供すべき機能を早期発見できるように検証可能にし、開発した機能をバグなく素早くユーザーへと届けていきたいです。

――フロントエンド開発部の今後が楽しみです。今回のインタビューを総括して、火村さん自身の今後の目標を伺いたいです。

うーん……。(しばらく考えてから)私はあまり目標がないんですよね。強いて言うならば、いつでも楽しく仕事がしたいですし、みんなにも楽しく働いてほしいと思っているくらいかな。

――そう考えているのは、過去に大きな病気を経験されたからこそ、人生の中で楽しい時間を増やしたいと思い続けているからでしょうか?

そうですね。インタビューで出てきたエピソードからもわかると思うんですが、心臓の病気だとわかってから、「身の回りで楽しいことが起きるように行動する」という指針が一貫しているんですよ。つらい仕事よりは面白い仕事をやりたいですし、普段の生活も楽しいほうがいい。いつも考えているのは、そんなことですかね。

――非常に火村さんらしい考え方だと思います。今回はありがとうございました!